由緒
庵原川流域は古代には廬原の国と呼ばれ、その政治的中心となったのが、庵原 古墳群の立地する丘陵に囲まれたこの平野であります。
当社は人皇第十二代景行天皇の時代(西暦一一〇年、約一八八四年前)に詔勅により 皇子日本武尊が東征の途中この地に本宮を設けたとされる旧蹟の地にあります。
創立年代は古くして不詳ですが、東征の副将軍として活躍した、吉備武彦命が 後に其の功績により廬原の国を賜り、尊の縁り深いこの地に社殿を造営し 日本武尊を祀ったのが創祀とされ、其の後お供として東征に随行した 姫、弟橘媛命を初め諸神を合したものと考えられております。
文献上の記録では風土記に第十三代雅足彦(成務天皇)の元年(西暦一三三年、約一八六一年前)に官幣を奉ると あり、異本類聚六国史に清和天皇、貞観元年(西暦八五九年、一一三五年前)久佐奈岐神社従二位を 授くとある。
延喜式(平安時代初期の儀式や制度を定めた律令の施工細則) 神名帳には廬原郡三座(久佐奈岐神社・御穂神社(三保)・豊積神社(由比))と記載されており、 式内社であります。
昔は有度の草薙神社に対し、東久佐奈岐神社、或いは東久佐奈岐大明神等と称えら れたこともありましたが、明治六年郷社に列せられてからは、今の社名となっております。
御神体 本殿に四柱の御神像が鎮座されており、これは朝廷より賜った貴重なもので 開披してはならないとの言伝があります。
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